昨日、最近にしては珍しく野草採りをしたので、途中の畑の脇で咲いていた梅をぱちり。もう盛も過ぎて、ちょっと疲れた感じは、この日の暑さも物語っていただろう。と、思い出したのが311のこと。のどかな初春の日差しはあの日とまったく変わらないんじゃないだろうか、あの日僕は仕事で高知にいたのだけど、立ち寄った農家の畑さんちの庭先、っていうか道端に蕾の桜が色づき始め、背景の空はまだ冬の冷たさを残す透き通った水色。日差しだけ明るい、やっぱり春の始まりの、今と同じ季節だった。
朝早く、高知の水産会社のMさんと待ち合わせ、西へ。まずは須崎の道の駅に出店しているかつお屋さんの取材で藁焼きを見て、高知ではいちばんのかつおが揚がる、小さな漁船の一本釣りの港・久礼に立ち寄って。四万十町では農家の畑さんにあいさつしてから、西土佐の鮎市場で林大介さんの尺鮎を取材、最後に沈下橋で記念写真をと移動。僕はそこで14時46分を迎えた。何も知らず。震災を知ったのはその後、地元のしいたけ農家に寄ってから高知市内に戻る車中、Mさんのご自宅からの電話があって。午後4時はまわってたろうか。
津波警報は高知県にも発令されていて、ちゃんと市内にたどり着けるかに一抹の不安もあったにはあったが、東京の家族と、やはり東北の知り合いの安否が気が気ではなかった。幸いにして家族とは連絡が取れたものの、その日以降、東北との連絡はとれなくなってしまう。そして眠れなかった翌朝5時過ぎて、心配でならなかった陸前高田、八木澤商店の河野和義さんの携帯に電話。つながった。東京にいらっしゃったのだ。しかしなんの助けの言葉もない。ご家族みんな、高田の安否がわからないのだ。なんとかなるとしか言えず、電話を切った。東京は帰宅が困難を極めていると報じ、津波に襲われたとされる東北の情報は断片的で、大きな被害にはなっていないかもしれないなどの予断もちらついた。
その日の交通はどうだったかというと、特に混乱の様子もなく、午後遅くの便で家路につくことができた。土曜日で、羽田からの電車も含め、何もなかったみたいに静かだったと記憶している。そのぽかんとした、不気味な時間。何をするでなく、翼の写真を撮っていた。
その後の凄惨な津波の映像。福島の原発の危機は、たっぷり過ぎる予断を持って報じられていった。311から2年を経た今日、石垣りんの「挨拶」という詩が思い出された。震災のどこが、そして原発のどこが、この詩と重なるのだろうか。この詩は何も語らず、事実の重たさというものをを語っているように思うのです。震災をめぐる様々に、自分なりの哀悼の意を表したく、引用させていただきます。
Posted on 月曜日, 3月 11th, 2013 at 11:00 PM挨拶
原爆の写真によせて
あ、
この焼けただれた顔は
一九四五年八月六日
その時広島にいた人
二五万の焼けただれのひとつすでに此の世にないもの
とはいえ
友よ向き合った互いの顔を
も一度見直そう
戦火の後もとどめぬ
すこやかな今日の顔
すがすがしい朝の顔をその顔の中に明日の表情をさがすとき
私はりつぜんとするのだ地球が原爆を数百個所持して
生と死のきわどい淵を歩くとき
なぜそんなにも安らかに
あなたは美しいのかしずかに耳を澄ませ
何かが近づいてきはしないか
見きわめなければならないものは目の前に
えり分けなければならないものは
手の中にある
午前八時一五分は
毎朝やってくる一九四五年八月六日の朝
一瞬にして死んだ二五万人の人すべて
いま在る
あなたの如く、私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。