<2>ミルいお茶から飲むお茶へ

12 月 03 日



お茶は好きでないとできない

’03年10月、船本さんは大病を患った。それから連続式の方の製造を息子さんが手伝ってくれるようになった。熟練が必要な青柳茶もこれで終わりとも考えたそうだが、どうしてもあきらめられず、去年から自分ができる量だけ、再開した。

船本さんは、今生きている人生はもらいもの、好きでないとできないとと吹っ切れたように言い、昔のことよりもと楽しい“飲むお茶”談義に会話を弾ませてくれた。それは今回の取材メンバーに、熊本県水俣市で同じ釜炒り茶にこだわる若き茶農家、桜野園の松本和也さん(40歳)が加わっていたからだ。彼は、信念として18年以上も農薬化学肥料を一切使用しない有機栽培を続ける一方、釜炒り茶に未来を感じ、試行錯誤を繰り返している。

「釜炒りは特に、秋になってからがおいしい。熟させてな、ちょっと春にこのお茶シブすぎるな、って思ったら、保管しておいて秋に出す。するとシブ味が甘味に変わってな。ばってんあまり若か葉の時はいつまでたってもだめな。葉に強い芯があるというかないといけん。良く出来たなと思うお茶は何年も持つな」

釜炒り茶は不発酵茶という分類だ。発酵させないということは即ち萎凋させない。効率が悪い釜炒りの短所をカバーする“香り”の可能性も閉じざるを得ない。しかし、中国茶があれほどの香りの多様性を花開かせたのは、萎凋の無限の可能性に気付くことができたからと言われる。遡れば1391年、明の太祖朱元璋がそれまでつくられていた固形の団茶を禁止して、葉がばらばらのリーフティー(散茶)を作らせたことから、釜炒りの技法や香りを出す数々の工夫が生まれたという。

日本茶の可能性として、あくまでも殺青(酸化発酵をさせない)にこだわる意味はまったくない。むしろあまりにも画一化された日本茶が、消費者の日本茶に対する認識を固定化させてしまったのではないか。同様に茶農家が進むべき道を固定化させて、双方の選択肢を狭め、消費者の積極的な選択による消費を鈍らせてしまったのではないか。選択と消費の自由、多様性がないところに健全な経済の活性化はないだろう。かくして日本人が急須のお茶を飲まなくなった。日本茶離れである。中国茶ブームである。ペット茶の席巻なのである。

ミルいお茶から飲むお茶へ

船本さんは、ある出会いをきっかけに、自分の生き方として、ふるさとの釜炒り茶に情熱を傾けるようになったそうだ。船本さんの茶の歴史は、そこから変化した。

「県や全国で1等取り出して、その当時は“ミルいお茶”ばっかやった。“ミルい”というのは、仕上げた外観が白っぽくなくて青い、若か味ののらん芽で摘むお茶」

もともとの船本家の暮らしは山仕事。チェーンソーをかつぎ、牛で材木切り出して、小さな田んぼを耕作し、子育てしながら、茶を売った。米の生産調整が始まり出した’73年には田を茶畑に転換し、専業の茶農家として入賞茶を出すまでになったのが30代の後半。そして入賞をきっかけに消費者からの引き合いも来て、直売するようになったのだという。

直売を始めて良かったのは、それまでとは全く違う出会いが訪れたことだったのだろうか、船本さんの言うその出会いとは、小川誠二さんとの出会いのことだった。生涯の伴侶、故・小川八重子さんと共に“暮らしのお茶”の普及啓蒙に半生を投じた方。著書に「小川八重子の常茶の世界」「日本茶を一服どうぞ」「茶に貞く」など。初代現代喫茶人の会会長、常茶友の会代表。2010年ご逝去された。実は、筆者が船本さんをご紹介していただいたのは、小川誠二さんだった。ご冥福をお祈りしたい。

「私が“ミルいお茶”つくっててな、そんなとき小川先生が熊本に来られてな、お話ば聞いたとですよ。変わったお茶飲ませていただいて、お茶の色が赤っぽかった。今思えば中国のお茶じゃと思ったけんが、5回も6回もよく出る、いやみの来ない、それはおいしいお茶やった。そこで先生からな、“ミルいお茶”より“飲むお茶”に変えたほうがよか、直売するならな、と」

船本さんは小川さんとの出会い以降、出品茶づくりをきっぱりと辞め、昔からの製法としての青柳茶に傾倒していった。釜炒りは香りが身上、山のお茶も香りが身上、せっかくの香りを殺す深蒸しとは何だったのか。香りを引き出す萎凋と釜炒りで、自分なりの“飲むお茶”をつくろう。萎凋とは、生葉をしおれさせること。酵素による酸化を促し、茶の香気を引き出す工夫。烏龍茶や紅茶では必ず行なわれるが、蒸し製茶では殺青といって、萎凋させずに蒸してしまう。船本さんは、小川さんとの出会いがきっかけとなって、お茶の常識そのものを問い直し始めたのだ。

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