心のヤマチャ
……國友昭香さん

四国はお茶の邦(くに)だ。茶畑だけではない、あぜ道に、小川のへりに、そして山なら至るところに茶の木が生えている。人が手をかけたのではない、自力で生きるそれは、山のお茶-ヤマチャ-と呼ばれ、歴史をさかのぼれば、何世紀ものあいだ、花を咲かせては実を落とし、この地の植生として生き続けてきた。奈良・平安の昔、学僧たちが、海を渡り大陸からもたしたというお茶。そのはるか昔の風景を知る人はいないが、その古(いにしえ)の景色をもういちど眺めたくて、2012年10月、高知県吾川郡いの町に、国友農園・國友昭香さんを訪ねた。

この幽玄。雑木の林の中に自生していた茶木をカヤ肥えと油かすで育てた実生のヤマチャの茶園(2010年6月)

この幽玄。雑木の林の中に自生していた茶木をカヤ肥えと油かすで育てた実生のヤマチャの茶園(初めて伺ったのは2010年6月、アポイントもなしにおうかがいした。雨の中、初対面のヤマチャにとてつもなく感動した。園主の國友昭香さんとはこの時以来のお付き合いになった)

◆照葉樹林の郷の山

「高い木がたくさん生えて、たくさんの茶の木があったのを、山の庭園のように、好きな木を残し、最小限の手を入れて、ひとつの茶園にしたんです」。

高知は山が近く濃い。高知第一の清流・仁淀川に沿って国道を北上、30分も走れば山里の風景になる。国友農園の國友昭香(くにともあきか)さんが、お茶の事業として初めて開いたお茶の山、“小倉山自然生え園”は、林道を登ってひっそりとした山の中にあった。林道から見上げる景観は、確かに風雅な庭園のようで、いつか観た雲南の映像と重なった。世界の茶の原産地と言われ、数百年の樹齢を持つ野生のチャノキが数多く分布する中国・雲南省普?地区。映画監督・柴田昌平さんの「茶馬古道 もうひとつのシルクロード」(NHKスペシャル)では、少数民族であるハニ族の方々が、樹齢千年をこえると言われる茶の木をお参りする。このシーンに、小倉山が重なる。

 雲南2700年茶樹王

「そういえば棕櫚(しゅろ)をホウキにしたり、ロープにしたり、雲南の植生や文化は土佐の山の文化と似ています。この風景もとても似ていますね」

神戸でアパレル関係の仕事をしていた國友さんは、病気で亡くなった父・博昭さんの跡を継ぎ’98 年、国友商事株式会社の代表取締役に就任した。課題だらけの事業でいきなり経営を任され、最初の2、3年は何をやっていたか思い出せないほどに多忙。そんな中で、國友さんは“お茶づくり”に一歩を踏み出していたという。「おまんお茶でもやれや」。お茶は生前の博昭さんから、話も半ばに語られていた。土木、建設、林業と、山の事業は厳しく、少しでも従業員の雇用の安定化が必要だった。お茶など全く初めてだった國友さんだったが、この父の一言から、自分なりのお茶づくりのイメージを育てていたのだ。その当時を振り返って、國友さんが語ってくれた……

◆有機、ザイライで香りの復活を!

「私はアパレル業界におったので、競争の厳しい世界だったからや思いますが、お茶をやるなら、まず第一に、土佐のようなノーブランドのところで、宇治とか静岡にやぶきたを植えたのでは対抗できないと思いました。有機栽培、そして改良種ではなく、土佐の山ならではの在来種(ヤマチャ)、という考えがありました」。

「吾北(ごほく)のお茶は、元より香りがすごく良いんです。私が小さい頃、ここらへんのお茶は、ノーブランドで静岡に、何も表示せずに出されていました。それでも、遠くにいてもわかるぐらい、香り高いお茶だったんです」「ところが、私が学生として神戸に住み始めた頃には、送られてくるお茶は何の香りもしなくなっていました。最初は水のせいかなと思いましたが、たまに実家に戻って飲んでみても、ダメ。吾北のお茶も昔の香りがなくなったと、悟りました。それで、香りの復活がテーマになったのです」。

国友農園の代表、國友昭香さん。2010年のこの時は突然の訪問しかも雨にもかかわらず、快く迎えてくださいました。

国友農園の代表、國友昭香さん。2010年のこの時は突然の訪問しかも雨にもかかわらず、快く迎えてくださいました。

吾北地区は、國友さんの暮らす吾川郡いの町、その北半分にあたる。高知県のほぼ中央にあって、四国山地の山麓をなす吾北は、茶や、和紙の原料となる楮(こうぞ)、三椏(みつまた)などを産出する山村。郷土史家の広谷喜十郎さんによると、土佐の喫茶の祖、夢窓疎石師が庵を結んだ14世紀には、吾北一帯で茶が栽培され、献納されていたという、お茶に縁の深い土地柄だ。香り高い吾北のお茶へのこだわりは、お茶の事業成功のカギであるだけでなく、もともと感性が鋭く、妥協のできない性格に、ふるさとへの郷愁も重なって、それは強い動機と志へと高まったことだろう。

國友さんは、そんな想いを胸にして、高知のヤマチャで香りの復活、そして有機無農薬!と目標を定めた。博昭さんが亡くなったその年の秋には、多忙を極める日々の業務の合間を縫って勉強 しつつ、山々を歩いては自然生えの山を探し、伐採したり草取りしたり、そんなことを始めるようになっていた。

(続く)

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