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お正月も終わってお茶飲みも平常モードでいそいそ……
あけましておめでとうございます。

お休み中は家族で丹沢の湧水なぞ汲みに行き、新年は、新しい年のお水で大福茶!といきたかったのだけれど、みんなで飲むお茶はかしこまるでもなく、いつものような味わい方で、楽しんでいる。いつもより長いお正月なのに、毎日どこかに出かけなくてはならなかったり、片付けものが予想以上に手間取ったりと、ぐっと気持ちを落ち着けてというような時間もなかったからというのもある。お酒と食事の時間が長くて、お茶がどうしても幕間の口直し的になって、その本来の、ふつうのつき合い方が、それはそれとして楽しかったというのもある。が、何より、僕が淹れるお茶が、僕だけのものではなくて、いつも家族一緒にいただいて、批評し、語り合うコミュニケーションツールに昇格(?)したことが大きいような……。

家族といっても僕と連れあい、そして小学6年の息子の3人だけ。しかも連れは原則コーヒー党、子どもにお茶の味わいが語れるはずもなく、という感じだったのが、最近の連れは「これますいさんでしょ?」とか、息子は「これちょっといい匂いするね、甘いのも出てるよね」など語り出し、そこから飛び出す感想批評をもって自分の見立てを確認できるみたいな信頼感が生まれてきている。同じ言葉で、同じ経験を共有しているこれがなんとも気分よく、ああ、これってほんらいの茶の対し方とは違うのかもナァと思いつつ、その屈託の全くない会話が楽しい。それは、僕の好みというよりは、2人のその時々の気分、コンディション、を聞くか察して葉っぱを選び、淹れ、感想を話し合う、みたいな流れだから、この日はこう、みたいな杓子定規、先生生徒さん的な関係ではシラけてしまうし、珍しい系のお茶、高級系のお茶を出すときは阿吽の何とやら、何かいつもと違うものを望んでるみたいなサインを感じ取って、淹れる。そして急須は3人誰が手にとってもいい位置にあるほうがいい。そんな「屈託のない」感覚が共有できているときは、おそらく、心の感覚も開いていて、お茶の批評ではなく、心の機微に触れるような、さまざまなものごとについての会話も成り立ちやすいのではないか。

お茶は普段の飲みものと思い、ゆったり構えることが必要かなと思う。構えずにいただき、異質な感覚のこないもの、より水を意識したようなもの、そこから始まって、確かに自分の体に沁みこんで何か覚醒させてくれるようなもの、違和感なくぐっと、(口はばったいですが)テロワールを感じさせてくれるもの。そして、そこから屈託のない会話が生まれるような、その屈託のない空間や人と人との付き合い方、ができるような、様々な接し方。はなはだ僕の不得手とするところのような気がするけれど、この家族といただくお茶を、ひとつの原点と見て、そのようにお茶をいただけるような話題や、空間を考えていかないと。

今年のお正月はせわしく、とは言っても特段お正月と力むこともなかったような、実に肩の力の抜けた、リラックスしたお正月でした。写真は国友農園さんの「龍2013」。高知の山で、野生と人の慈しみでつくられたようなお茶なんだけど、濃くして、薄くして、がばがば飲んでしまっております。

長くなりましたが、
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

国友農園「龍」が育つ川又日浦山自然生え園。岩場の中の雑木と竹林に自生のヤマチャ

国友農園「龍」が育つ川又日浦山自然生え園。岩場の中の雑木と竹林に自生のヤマチャ

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