ご縁でいただいた、ある農家のお茶を煎茶、釜炒り茶、紅茶、ほうじ茶と、何種類もひと時に味わっています。まだまとまっていませんが、ザイライという、単一品種ではないお茶の味わいについてや、その渾然とした、一見まとまりのないボディが発する、製法によらない共通の味わいについて考えています。彼のお茶はそんなことを考えさせるお茶であり、そこから畑のことや、お茶づくりについての考えが、うっすら浮かび上がるような気がしています。

テイスティングというような、瞬時に何かを嗅ぎとる方法ではなく、いろんな状況で飲んでみて全体を感じようとしますが、何かがわかるかどうか。葉姿から水色、香り、味わい、で総合点は云々、的な評価は比較するにわかりやすく勝敗もつけやすいように思います。が、このお茶何種類も届いた時、これがぜんぶひとつの畑の、ひとりの生産者が、おそらくは「自分のお茶づくり」に心を傾けたお茶を、そういうふうに要素分解して足し直してどうだ、で評価するものではないよなと、今さらのように気付かされたというか。その考え方では結局品種茶になると思うのです。それでは面白くない。というか、彼のお茶をそのつもりで飲んだとき、品種茶などなかった昭和30年代以前のお茶を思いました。そこにとてつもない、ザイライのお茶の裾野を感じることができたらと。そのようにして、ひとつの道が見えてくるとすれば素敵ではないかと。

考えようですが、品種というファクターがはずれることで五感が浮遊して、別の拠り所探し始めるので、体感するしかなくなるというか。なんとも歯切れが悪いですが、品種茶よりもはかない、あるかなきかの香味を捜すより、ザイライ茶の全体観を、感じてみようと思います。

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