Exif_JPEG_PICTURE在来のお茶は地域や歴史の遺産だし、そういうお茶の木を株に仕立て、摘んで“お茶”に仕上げるまでの技術は、今のお茶づくりにはない貴重な文化遺産だと思う。そんな在来のお茶を釜炒りにしていただくと、なんともほっこりと、時にはびっくりするような香りが立ち上り……。このお茶を飲んだら、僕の場合は蒸したお茶を好んで飲めなくなりました。在来のお茶はどうしてこんなにおいしいんだろう。

もう10年も前、在来種の「野菜」に出会い、調査し、作り手と話していたことがありました。在来種を伝える運動に関わり、世界中で“在来”が消えていく流れを知ってきた中で、改めて、今のお茶の情況が似ているなと。野菜もお茶も換金を目的にして大きく変化しました。味や香りよりも、収量や斉一性が求められるようになって、品種改良が進んだわけです。

野菜の場合はF1品種が、お茶の場合は挿し木の品種茶が広がっていきました。あるお茶農家から在来のお茶を「雑種だね」と言われたことがありました。当時はお茶を改良品種という進歩的な切り口で考えたことがなかったので、少なからずショックを受けたことを覚えていますが。在来のお茶は進歩がない雑種かぁ……。

在来のお茶は、今では統計上、国内に数%しかない貴重品!と思ってきた自分は水をぶっかけられたような。淘汰という人だっている。

……いずれにせよ、今の日本の茶園はほとんどが挿し木で増殖した品種茶園になりました。挿し木の品種茶が急激に広がったのは昭和33年から。それ以前からあって改植もしていない茶園はほぼ実生の在来園といっていいと思います。

民俗学者の中村羊一郎さんはある誌面で、取引の対象にならないお茶は「隠れた庶民の茶」として統計に計上されなかった、と言っています。ふんふん、ということは統計上数%しかないといわれる在来のお茶も、実は数%と言わず「隠れた茶」としてどこかにあるかも知れないわけですね。

宮崎県の山の奥。椎葉村では、かつて自家用のお茶は各家がつくっていましたが、今自分でお茶づくりする家はわずかです。いずれ消えていってしまうのかなあと残念な気持ちで訪れたことがありました。ただ、見せていただいた村の資料によると「本村の山林にはいたる処に自然茶があり、これらは少し手を加えれば何時でも茶園になる。畑茶園、畦畔茶園に山茶園を組み合わせると、自家用の域を超えて産業として成り立つ素地は十分にある」と。

やっぱり。統計に出ない「隠れた茶」は、今もひっそりと、山の中に佇んでいるのです。椎葉だけでなく、日本の山里いたるところに、そんなお茶がたくさん眠っていると思います。

しかし、在来茶の出番はもうないのかなとも思います。それは戦後の品種茶信仰というか、お茶を品種として分析、活用し過ぎてしまったことや、お茶以外の嗜好品がたくさん流通するようになったことと関係している気がします。消費者を巡る環境は変化して、明確な香り、わかりやすい味わいを求めるようになったと思うのです。お茶の品種もこういう中で、視聴覚的というか、わかりやすい方向に改良されてきたとは言えないでしょうか?

すると、どうも在来のお茶には分が悪い。ゆっくりと時間をかけ、あるかなきかの香りを託されて、そこから思いを馳せるより、誰もがわかりやすいお茶が好まれ、支持される。マーケティング的に、プロダクトデザイン的に、アプローチとして実に正しい。

品種のお茶も悪くはありません。おいしいしすごいものもあるのです。が、がんばって時間をあけて、お茶をいっぷく、瞑目したとき、そういうお茶に興ざめして、お茶の楽しみを預けられない自分がいたりもするのです。

……………………

今も山の中にひっそりと眠っている自然生えの、在来のお茶の“出番”を夢見ています。山に眠る在来のお茶は、言うなれば“雑種”です。違う形質の葉っぱがばらばらに叢をなすのが在来の茶園ですから、ばらばらなお茶っ葉が混ざれば雑味になる。それは雑味と一蹴してしまっていいんだろうか? 

個人的な見方になりますが、お茶って味覚嗅覚触覚的というか、体全体で感じて受け取るものである気もします。雑な機械摘採のうえ雑な製茶技術はいけないけれど、品種茶の混ざりっ気のない香味とは違った、在来のお茶ならではの、お茶の全体観のようなものがある。それが在来のお茶の魅力として、尽きない喜びとして、他の飲み物にはない懐の深さを支えていると思うのです。

写真は2008年椎葉村でのもの。薪火の水平釜でお茶を炒るのは椎葉フジ子さん。熊本の茶農家Mくんを誘い、茶人Kさんとのなつかしい旅です。

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