野良の茶道

10 月 13 日



先日、入間のお茶の博物館ALITで見つけた本。『日本の茶』という題名で、あの松下智先生が書かれた、なんと非売品。1969年発行、40年以上も昔の本です。日本のお茶を巡る様々を、豊富なうんちくを織り交ぜながら書き綴ったエッセイのようで、お茶へのまなざしが優しいというか、なんともホッとする本です。ぱらぱらめくっていて目に止まった写真が1枚。野良でお茶じゃありませんか。こういうのがいい。

お茶畑の傍らでひとときのお点前。
お茶畑の傍らでひとときのお点前

…簡単な茶道具一式をリヤカーにおやつとともに積み込み、野良仕事に出る。そして畑仕事の一休みに“一服”となる。「お茶を一服どうぞ」というのにも実感がこもってくる。お茶は、もともと疲労回復の妙薬であることは漢代から知られているところであって、これを、理くつぬきに実行しているわけである。お年よりも若者も、相寄って、鍬をもつ手で茶筅を振り、「ああおいしい」といって飲みほしたあとの笑顔こそ、正真正銘「茶は養生の仙薬である」といえる風景である。茶道の巨星利休居士が見たならば、はたとひざを打って、「これが真の茶である」とさぞかし喜ばれることであろう。…(松下智『日本の茶』所収「野良の茶道」より)

妙薬、仙薬と呼ばれたお茶が、野良の暮らしではおそらく、そのほんらいの効果効能を発揮している。前に紹介した屋久島の三省さんの手づくり茶の話もそうでしたが、こんな何気ない風景のなかに、人とお茶との関係があるのではと思います。食べ物飲み物をお金で買うことは少なく、多くが手近でまかなわれている。お茶などは庭先に、畦畔に生やしておけばよく、年に1回でも摘んで1年分をお茶にできた。

お茶をめぐる環境が大きく変化しました。宮崎の椎葉村では、かつては自給していたお茶も今は少なく、(買うではなく)分けてもらうのだ、という話をたくさん聞きました。お茶と人とのもともとの関係が「贈る」「分かち合う」という形で残されたということでしょう。これが都会になるとその痕跡すら見るのはむずかしい。コーヒーもジュースも選び放題、お金で買え、居ながらにして届く。今は、よりおいしく、より香り高くと、新しい結び直しが生まれて消える、終わりのない実験場のようです。

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松下智著 『日本の茶』 1969風媒社刊

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