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八十八夜の5月2日。相模野の山に自生のお茶摘みに出かけました。そこは去年の秋に通りすがりみつけたところで、お茶の木のある至るところで花が咲いて、それは興奮したものでした(峠の茶花)。近所に立派な舗装道路ができて誰も通らなくなった峠道で、アスファルトになっているのは集落のどんづまりまでで、先にある峠のあたりは昔ながらの山道です。


お茶の木はその峠の周辺にヤブになって生えていたり、山の斜面の雑木林にぽつぽつ自生していたりして気ままです。ひょろ長いお茶の木の下に実生の芽生えが群生している姿や、見上げるように伸びた木の先にお茶の新葉が輝く姿。鳥の声、虫たちも賑やかで、今が一番の季節、ということもありますが、お茶の木もたくさんの生き物たちと一緒になって生きている、そんな感じの里山になっています。

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株に仕立て丸く選定されたお茶畑、しかも形質が揃う同じ品種で整っていれば、お茶の新芽の出揃いも一斉、肥料のおかげも手伝うので、葉っぱのボリュームは見応えがあるものですが、山で自然生えのお茶の姿はひょろっとした立木のようで、新芽もまばらで情けない感じです。これを摘むといっても、茶畑の茶摘みをしたことがある方なら拍子抜けすることでしょう。生産性もへったくれもない。仕立てもへったくれもない。ちょっと手入れをしてあげればもっと元気になるだろうに…。人間はいろんなことを思うだろうけど。僕たちも欲張らず。というかないものねだりをせずに、手のひらほどを摘めたら山のお茶の香りだけでも楽しめるねと、山道の散策がてら、眺めながら、摘みながらという感じ。お茶摘みというよりは、ハカのいかない山菜採りというか。


お茶を摘んでいくと目線が近くなるものですが、周囲はお茶以外の植物が様々で楽しめるもの。山のお茶はひょろ長く、芽を摘もうと上を見上げて手を伸ばせば、木々の間から空がのぞき、そこから注ぐ光をたくさんの植物の葉っぱが分けあっていました。茶畑ではないここでは、お茶の木もその生態系の一員になって、共に暮らしています。そんなお茶の木に近づくと、日当たりの良い場所ならばかすかに花のような、果実のような香りが漂ってきます。このお茶の香りを知っている人は少ないだろうと思いますが、それは幸せな香り。そういえば、故・小川八重子さんの一節も思い出されました。

「…完熟した在来の茶畑の近くに行きますと、いい香りがしてきます。熟した葉を摘んで手のひらにのせると、手のぬくみで発酵が促されて芳香を出し始めます。野生のチャノキがあるというので何人かで茶摘みに行った折、帰りの電車の中、みんな紙袋に顔をつっこんで「あーいいにおい」の連発でした…」(小川誠二著『小川八重子 常茶の世界』


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この日摘めたのは1時間ほど歩いて2人で両手のひら2つ分。少しはお茶にできるねと楽しみを残して30分ほどで帰宅です。車の中はお茶の香りでなんとも幸せな気分になりながら、故・小川八重子さんの話を思い浮かべていました(常茶と浄茶…三省さんと八重子さん)。

いい一日に感謝!

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