水俣の桜野園さんからお抹茶のサンプルが届いたのは6月の始めの頃。それから母の骨折入院など色々あって、申し訳ないことに日を過ごしてしまいました。今日あたり東京も暑くなってきたのでお抹茶より冷茶!と行きたいところだけど、いただいてみればお抹茶もいいじゃないですか。

お抹茶などどんなものがよいもので、だめなものかなどについて、そもそも素養がない。ただこの、粉になったお茶を茶碗に落とし、湯を差して、茶筅でたてていく流れの楽しいこと、お茶の香りのふくよかなこと。渋さや喉に引っかかる肌理の粗さはさておいて、この香り良さは、このお茶をいただくまでのお作法の末なら、きっと心に残る香りになるだろうな、人により、ところによっては、至福と賞する人だっているかも知れない。見よう見まねで点てた、桜野園のお茶はそんなよい香りの、うんまいお抹茶でありました。

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たまたま見舞いに行った母に心得ありで借りた茶碗と茶筅と茶さじのみ。ほかは何の道具立てもない。おもむろに桜野園のチャノキの茶さじでその粉をひと匙茶碗に落としてお湯をさし、シャカシャカ泡立つようにかきまぜると、椀の見込みにいい香りがどんどんとこもる。香ばしいような甘いようなお茶の香りで、時につれ野芝にたまったお日様の香りのような、なんとも好ましい香りに変わっていきました。

クンクンしたくなるような香り。至福といったのは、作法と型をつくした末にこの香りがやってくればのこと。僕のウチでとは違う香りに広がるのかもしれないなぁと思ったから。火の入り方はよく香りを高めていて、ただしそれ以上を求めれば、葉の育て方、製品までの管理はよりデリケートな勘所も関係してくるでしょう。簡単ではないと思いますが、可能性を感じる一服であったなぁと思います。

どうしてかと考えると、お抹茶はその作り方から、葉に徹底的に旨味を溜めるため、一般的には化学肥料が使われてきたと思うけれど、このお茶には肥料そのものが施されていません。きっと化学肥料もなかった、施肥という概念そのものもなかった(かも知れない)千利休の昔の味わいがあるのかな?

覆いをするので、光合成が進まないのに土の養分は蒸散作用が引っ張り上げる。無施肥の畑の土の中は窒素分が多すぎることはなく、おそらくは少し大きな、アミノ酸のような分子構造で吸い上げられて旨味に転じていくような気がします。一般のものは小さな分子で効率よく吸い上げられる反面、葉っぱに来てから旨味に再合成されるエネルギーを消費し、合成しきれなかったものが化学肥料工場でつくられた分子構造のまま、大量に溜まっていく。そう思うので、味わいや香りに大きな違いとして現れるのだと思います。

さて。いただきかたにも作法を外し、感じる所、きっと広がりがありそう。
「うんまいね~このお茶!」…ありがとう!

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