山茶に晩茶。

お茶のねっこは山茶と晩茶にある。常も浄も、聖も穢も。だから気づきも癒しもあるし、学びもある。心通じる方々と語り合って来たこと、洗練はそこから見出される。

晩茶の晩は晩い(おそい)の晩。阿波も美作も、田植えを過ぎ、梅雨を過ごした夏土用の、良く伸びた最初の葉っぱから年一度だけ、その季節だけのお茶をつくる。春の一番茶あと、何番目かの番を茶にする番茶とはべつのお茶で、その地方で古くから親しまれて来たお茶のこと。土と共にあり、安らぎを与えてくれるが、土からこその洗練が見え隠れしている。とある有名な先生は阿波晩茶の晩はあてた名だとおっしゃるが、晩をあてた意味はここにあるのであって、番にこだわる必要はない。美作晩茶も晩なのだ。

山茶は山人のお茶。田んぼはなくて焼畑あと、春一番に萌え出る茶の芽を摘んでお茶にした。神事仏事に大切にされ、山人の暮らしの端っこを今ぎりぎり伝えている。土というより岩と共に生きる山茶は、山で育つお茶の香り高さを、非常に豊かな表現力をもって伝えてくれるし、お茶がこれほどまでに多様な展開を見せたのも、釜炒り茶があったからだと思う。

戦後から今日まで、お茶は業界をつくるほど大きくなった。品種も栽培も製茶も変わって、山茶晩茶は遥か遠くなって、山茶晩茶を知る人も少ない。僕だってそうだった。でも、お茶のねっこは山茶と晩茶にある。常も浄も、聖も穢も。香りの豊かさと多様があり、自然や、日々の暮らしに体を親和させ、呼吸させてくれるようで、その全体性のなかでは、目覚めや眠りや思いを重ね、ひと時を委ねることもできる。

山茶晩茶から出発して、また違う洗練を目指すことはできる。

写真は岡山県海田町・美作晩茶、徳島県上勝町・阿波晩茶、高知県大豊町・釜炒りの山茶。

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