残り芽のお茶。

06 月 14 日



.残り芽のお茶。

季節は6月に入ったりチャノキはもう芽吹きではなく、出そろった芽が葉から展葉してすくすくと生長を続けて、次の芽の準備を始めている。そこでちらほら、出遅れた芽を摘むのだが、芯から3枚目まででふっくら硬すぎずの摘みごろを選んで摘む。4月なら若々しい香りや旨み苦みだが、今なら葉に乗ってくる渋みや光合成の甘みを期待する。これらは香りの原料とも考えいるので、摘んだ後はゆっくりと萎凋させる。最初の1時間ほどは日にあてて、そのあとは静かな風が通る室内ですやすやと。

摘みたてでシャキっとしていた葉もしなだれて、だんだんと花のような良い香りが漂ってくる。そのピークの頃合いを見計らって釜炒りに移る。発酵の強い、赤みがかったものではなくて、緑を留めてしっかりと香るフレッシュな烏龍茶をつくりたかったのだが、今回は難しかった。最初の香りはいい感じだけど、青さ揉みやすさを気にして後が弱い。萎凋をやや早く終わらせてしまったようで、発酵が弱い(といえばいいのか、萎凋の行程で葉から香りが現れる状態)と思った。

そのせいで色は緑が保たれたし、葉に充分な水分が残って焦げ付かず崩れず、湯気もたくさん出て釜炒りがしやすかったのだが、釜炒りから揉み、乾燥を終えていただくと、いい香りは一煎でさっと消えてしまうような感じ。着色を恐れずに、発酵を進めるべきだったのかもしれない。しかしそれでは水色は赤くなる。そうならないためには葉の厚さや軸の太さ、維管束の健全さ?も必要だし、摘み方だってもっと厳密にしないと。施肥、摘採時期だけでなく剪定仕立てから品種まで、改良改良、尽きない課題が見えてくる。

いいものをつくりたい。思いの先には、そんな袋小路が待っている。乗り越えてこその達成感を求めれば好悪もうまれ価値を認めて道もできる。が、実のところそれがよいのかどうか、よくわからない。そう考え悩む理由はいろいろある。あるままのお茶の香りを、いただくままその時のお茶の良さとして、比べず、高みを求めずに、茶とはこういうものだと喜ぶ感性もあるのではないかな。と、自分に聞いてみる。

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