少し前、らでぃっしゅの後藤さんとLURAの会、という集まりに参加した。
楽しそうで、楽しかった。おいしかったし、いいところなので、おおいに寛いだ。いい人たちばかりだし、そう、いい人にはいい人々が集うのだ、宇野さんの人柄がうかがえた。が、何気ないことばかりで、この出会いでは、少々もやっとした心残りのまま家路についたのだった。その後ももやっと感は続いた。宇野さんの考えること、育てようとする世界ってどんなものなのかな、と。
都会で、しばらくたってから、心に浮かんだのは、自給を分担する、という言葉だった。
かっこいい言い回しではないが、自給という言葉。自分の胸に手をあててこの言葉を振り返れば、そこに憧れの気持ちが含まれていることに思いが至る。ずっと都会暮らしの自分、農的な暮らしへの憧れ、かつては、なんでもかんでも自分で手作りしてみたいという嗜好、衝動のようなものも、常に心に抱いていた。そのようなことに近い業界に身を置きながら、むしろ遠のいていく自分、かつての思いも色あせていたようだ。その思いがふたたび色づき始めるのを感じた。
美しい里山で農薬を使わずに育てられた野菜をいくらの値段で買おうか、といった話ではなくて、今すぐ自分の畑はムリだけど、わずかずつでも自給に近い、農に近い暮らしの手段を持つにはどうしたらよいか。焦がれるように根源的に、求めてやまない故郷への回路が、細々とでもいいから、つながっていることを確かめるにはどうしたらいいか。
そのようなテーマに真正面から向き合っている人が、僕の身近にもうひとりいたことがうれしかったし、そのような良い話として、この実験に、かかわってみたいと思った。いいじゃんか。