釜炒り茶の歴史
……釜炒り茶とは何か? 2

釜炒り茶とは何か1 ≪釜炒り茶って、どんなお茶?≫
釜炒り茶とは何か3 ≪釜炒り茶これから≫

[ 古くから伝わる釜炒り茶 ]
釜炒り茶は、喫茶発祥の地・中国に連なる、茶の歴史そのものを今に伝える製法です。その製法は1406年に栄林周瑞が霊厳寺(福岡県八女)に茶の種と共に伝授したとも、1504年に紅令民が佐賀嬉野に南京釜を持ち込んだとも伝えられています。明朝が支配していた当時の中国でも新しく、中国では、その特長である香りの妙味を活かし、その後の烏龍茶に代表される、様々な香りの文化を開花させていきました。日本に伝わった釜炒り茶も、元禄年間(1688-1704)には、当時肥後を納めていた細川氏への献上茶として登場するまでになっていました。

[ 炒って揉んで乾かす ]
製法は「炒る」「揉む」「乾かす」の3点。最初に、摘んだ生葉を熱した鉄の釜で炒ります。チリチリとはぜる音を聴きつつ、焦がさぬように茶葉自体の水分で蒸し炒りして、酸化酵素を失活させます。これを殺青といいます。次に、葉がしんなりしたら、釜から降ろし、茶葉を莚(むしろ)などに広げて揉みます。そしてまとまってきたら再び釜で炒る。これを繰り返すうち、釜炒り茶は、特徴のある勾玉状の茶葉として仕上がっていくのです。

[ お湯を注ぐだけで飲める ]
「炒る」と「揉む」という工程は、釜炒り茶が登場する以前のお茶には、ありませんでした。それまでは、蒸して固めたものを粉にして飲む、煮て干したものを煮出して飲むなど、製法はシンプルでしたが、飲むには手間がかかりました。炒って殺青する方法は、蒸すより効率が落ちましたが、香りを生かせたのです。さらには、揉む工程で茶のエキス分を抽出するので、お湯を注ぐだけで飲めるという、画期的な喫茶法として花開きました。今の日本で主流となった蒸し製煎茶の始まりは、1738年、かの永谷園の創祖とされる永谷宗円の登場を待つことになります。

[ 広く親しまれた釜炒り茶 ]
1828年、オランダ軍医、シーボルトが、帰国のときに持ち帰ろうとした積荷には、煎茶と釜炒り茶がおよそ半々あったそうです。注目すべきは、その釜炒り茶が良い芽を集めて作られた高級品だったことです。庶民的なつくりの釜炒り茶が各地に現在も伝わることを考え合わせると、当時の釜炒り茶が、普及品から献上茶までを広くカバーする存在であったことが想像されます。

[ 開国とともに ]
明治に入ると、お茶は絹と並ぶ輸出の主力商品となって、各地で生産が奨励されました。ところが中には粗悪品もあり、輸出用茶の品質向上を目的に、1883年、全国茶業組合(現在の日本茶業中央会)が結成されました。茶業組合準則では「各地茶業取締所ノ気脈ヲ瓣通シ、取締ノ方向ヲ一様ナラシムコト」と、輸出用のお茶に、全国統一した品質規格で臨むことがうたわれています。乾燥を日干しで行う釜炒日干茶の製造が禁止されるなど、釜炒り茶への規制が厳しくなっていきました。

[ 近代化が始まった ]
ところが、努力のかいなく、日本のお茶は、その後新興のインドやスリランカの紅茶に席巻され、1895年を輸出量のピークとして、次第に世界市場から姿を消していきました。これに伴い、地方の小規模農家は衰退していきます。高林謙三が製茶機械を発明(1899)したのもこのころで、以降、静岡県を中心に日本の製茶の近代化が進んでいくのです。輸出向けの規制により地産地消的なお茶が国内から消え、機械製の煎茶が国内市場を得たという格好です。

釜炒りの機械化
昭和に入ると、九州の釜炒り茶も機械化が始まります。1950年代後半には連続式の釜炒り機も導入されましたが、効率や、蒸し製中心の全国評価基準などに配慮した機械化は、かえって本来の香り高い釜炒り茶の特質を減じ、生産性の面でも蒸し製の機械には太刀打ちができないという、なんとも歯がゆい状況を生み出します。

やぶきた登場
その後の日本はさらなる近代化の一途をたどります。1953年にはあの“やぶきた”が正式に品種として登録されると、ばらつきのない、均質な作りやすい品種として広がっていきます。多様な遺伝的形質を備えた、昔ながらの在来種はどんどん減っていきました。挿し木栽培による均一なやぶきた茶園が8割を越えました。

規模拡大
1961年に制定された農業基本法からは、機械化に拍車がかかります。農薬・化学肥料を多投する生産方式によって規模拡大が進みました。驚くほど多く化学肥料を使って周辺の水系を汚染したり、病気にかかりやすい木には、農薬が不可欠とされるようになりました。こうした過酷な競争の中で、1958年当時90%の工場が稼働していた佐賀県嬉野の釜炒り茶は、現在では5%を切るまでに減ってしまったそうです。

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