ヤマチャの茶園づくり

02 月 19 日



小倉山は前回訪れた6月と異なり、夏の激しさをやり過ごし、どこか落ち着いた表情で迎えてくれた

小倉山は前回訪れた6月と異なり、夏の激しさをやり過ごし、どこか落ち着いた表情で迎えてくれた


四国の山間地一帯は、山林を切り開くと必ずといっていいほど、ヤマチャが生えてくる。今の人工林などは戦後に造成されたものだから、伐採のあとヤマチャが萌え出るのは当然、山歩きをしていてもそこいら中に見ることができるものだ。これがいつごろのものかについては、明治、はたまた戦後ともいわれるが、やはり僕は“いにしえ”より、と考えたい。

◆ヤマチャのこと

土佐はお茶の歴史が古い。8世紀ごろ、僧侶による大陸との行き来によりもたらされたとする説もあるし、夢窓疎石師は、喫茶養生記を著した栄西禅師、京都栂尾より茶栽培を広めた明恵上人とも親交があり、14世紀には茶園とともに喫茶の習いが根付いていた可能性もある。近世から近代にかけては、山内一豊入国の17世紀、すでに商品作物としての地位が固まっており、積極的に栽培が奨励されるほどの隆盛を見せ、中でも樅ノ木山の青茶といって、國友さんの暮らす“いの”のお茶は群を抜いていたという。その後、茶の輸出で湧いた明治期になると四国一帯で盛んにつくられ、一説で愛媛と高知での産出量は静岡県に次いだが、これは土佐の茶の歴史の深さから考えれば、最近の話だ。

お茶は、自家不和合性といって、交雑をしないと実を結ばないが、これでは代を重ねるたびに違う性質になってしまい、性質の安定のために都合がわるかった。種からじっくり育てたのでは時間もかかる。そこで、改良された品種を、交雑した実生ではなく、挿し木で増殖する方法が採られるようになった。1950年代以降、日本中の茶畑で品種化が進み、今では全国9割以上の茶畑が品種化された。挿し木での改植は簡便で、一気に広がった。代表格が、あの有名な“やぶきた”だ。


品種化以前の、品種がわからないお茶を在来種、ザイライと呼んでいる。挿し木ではなく、交雑して実を結んだ種を植え、時間をかけて株に仕立てられたもので、葉の色から形、香りなど、すべてが揃わない。ザイライの畝を見れば一目瞭然、同じ畝で生育がバラバラ。これでは機械で刈れば揃わないし、仕上がりも不安定、収量にも難があるので、業界での評価は低い。

ところがザイライは香りが良い。種から時間をかけて育った茶の根は、直根が地下深く、岩にも食い込み、そこから細根が展開するので微量に存在するミネラルなどの吸収力が高いだけでなく、多少の干ばつや過湿には影響されない。挿し木から育ったクローンである品種茶の根は“ヒゲ根”と言って、いきなり細根となる。展開は地表近くに限られるので、環境変化に影響されやすく、茶としての香味も表土近くの肥料成分を反映して、いわゆる“肥料っ気”も出やすいという。

ヤマチャはまさに、種から育った、野生のザイライのお茶。山を開いたその時点ですでに長い年月を生きてきた。直根を地下深くに食い込ませて、山の香気をたくさん吸い込んできたお茶だ。國友さんにとって、古(いにしえ)からの遺伝子を受け継いで今を生き、ふるさとの山の自然と共に生きてきた、敬愛すべき、かけがえのない存在なのだ。

豊かな植生が伺われる茶園かはたまた庭園か。立木がチャノキに優しく、すずやか

豊かな植生が伺われる茶園かはたまた庭園か。立木がチャノキに優しく、すずやか

◆茶園づくりのこと

お茶づくりは全くの初めてだった國友さん。専門書を読みつつ、九州は宮崎県五ヶ瀬、熊本の泉村から佐賀県の嬉野、静岡へは大井川、川根、天竜と、ここはと思える全国のお茶づくりを必死で見て回った。国内だけではない。台湾を、韓国を、中国は武夷山へも、お茶づくりのヒントを求め歩いた。そして國友さんは、土佐の山ならではの、お茶の香りが生きる製法として、釜炒り製法でお茶作りをすることを決めた。それも機械ではなく、本来の、昔ながらの手炒りの釜炒り茶だ。

「山を開く時には、歩いて、下ばえを食べて決めるんです。山の中で食べると、お茶の葉ひとつひとつ、味がすごく違う。お茶づくりするかどうかは、親葉を噛んで味わってぜんぶ決めるんです。甘味旨味のない渋みだけのお茶は、お茶にしてはいかんのですよ」。

国友農園のお茶選びは、畑に植える品種を選ぶのではない。おいしいお茶が自然に生えている“山”を選ぶのだ。そこには、形質がまちまちな山の茶の木を選ぶという意味と、その山の土質や岩質を選ぶ、水や日照などを選ぶという意味がある。それはその山に根を下ろした茶の木の過ごした時間を選ぶことでもあった。


地域に古くから伝わる焼畑農法で山を切り開いて育ったヤマチャ。國友さんが実践する栽培方法は、農薬や化学肥料などいっさい使わず、カヤ(ススキ)、油粕など植物性の、自然の肥料成分だけで育てる自然農法だ。山で野生に近い状態で生育してきたヤマチャを、一芯二葉、国友商事の従業員の皆でていねいに手で摘んで“お茶”にする。國友さんは、茶葉から大切な“香り”が失われてしまった原因について、栽培時の窒素肥料の入れ過ぎと、製茶工程での乾燥→製茶する時の乾燥工程なのではないかと指摘する。

「窒素系の肥料は香りの成分が合成されるのを妨げる。乾燥方法では、今の蒸し茶のすべてが鉄板の上を焙りながら風を当てるという方法なんですが、たぶんお茶から香りがなくなっていったのはこういう機械が普及していくのと入れ替えだったんじゃないかと思います」。

こうした問題は、わかっていても、ふつうなら効率を優先し、機械でできる部分は機械に任せ、品質には多少妥協してつくるもの。妥協がまったくない手法を極めようとする國友さんに質問すると、「わかっていたら、やらなかったでしょうねぇ、怖いもの知らずというか、やり始めてからたいへんさと難しさ、お茶の奥の深さが少しずつ見えてきた……」と回想する。

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(続く)

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