天空。春日の在来茶園

09 月 27 日



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在来茶のシンポジウムなのだからと、ほかの予定を2つもすっ飛ばし、岐阜県揖斐川町春日に行った。朝6時の新幹線で名古屋、在来線の大垣からは高知の國友さんと合流して会場へ。短い2日間の中身は濃すぎるほどに濃く、これは少しずつでもこのblogに上げなきゃと思うけど、まずはこの茶園のお話しから始めさせてください。

春日は琵琶湖の東、伊吹山を乗っ越したふもとにあるムラ。伊勢湾からなら揖斐川を北に遡った上流の山村だ。西日本と東日本を隔てる山の連なりにあって、天下分け目の関ヶ原がすぐそば。気候や文化風土、地政的な分け目の場所であり、中世から近世にかけては、多くの人や文物が行き交ったのではと思う。標高が350mと聞いて低く感じるのは、一種フシギな景観からにじむ懐かしさ、里との隔絶感からだろうか。

春日の在来茶園という。在来茶園というのは、品種改良される前の、いわば雑種のチャノキの茶園のことで、昔の茶畑はどこもみんなこんな感じだった。不規則にモコモコしている畝は、株仕立てといって、お茶の種を蒔いたなりに自然に仕立てたから。今のお茶畑は、機械が茶を刈りやすいように、まっすぐになった。同じ芽の出方をする品種に植え替えられていったのも、一斉に芽が出る均質な品種なら、機械を大型化させて、短期間で刈り取ることができるからだった。愛おしいモコモコ、株仕立ての茶園風景は、お茶が機械化される前の、なつかしい風景だったのだ。

ここでは700年も前から茶がつくられていたそうだ。わずか1,2時間ほどの見学、それも団体行動、ほんの散歩程度の記憶で何を語るでもないけれど、畝をなす在来の茶園はどこかしら懐かしい感じがした。マチュピチュの丘のようだとも言われるし、僕はブータンの丘や北ルソンの棚田を思い出した。今は秋の草刈りの季節で、そこここの茶畑でチャノキに絡まるヘクソカズラ、ツユクサなどなど引き抜いては精を出すおじいさん、おばあさん。声をかければ皆さん気さくで。

聞けばここは在来の茶や景観にこだわって個人販売する農家もいるし、それでは効率も良くないからとヤブキタに改植して農協に出荷する農家もいろいろだという。詳しくは聞けなかったが、ここのお茶は良い値で取引されているのだと思う。照る日曇る日、霧の出方や風の通り方、そして特徴的な土壌の性質から、お茶に適した土地なのだろう。ある農家さんが、昔は養蚕が盛んで、桑畑の間に茶の種を蒔いていた思い出があるといっていた。講演をされた武田義行先生が、アルカリを好む桑クワと酸性を好むチャノキの混植は面白いと言っていたけれど、そこにもフシギのポイントががあるような気がした。この春日では、農家個々の違いにかかわらず、お茶はすべて無農薬で、施肥についても少肥、または無肥料だという話にも驚いた。

茶農家、伊川健一さんは奈良か。嬉々として草取りおばあちゃんに話しかけていた。草取りの鍬、腰だめの藁かごに興味しんしんの様子だった。一緒に歩いた國友さんは在来の茶葉の細かいこと、芽が立つ、芽が寝ることに気を寄せ、葉をちぎっては食べながら、ヤマチャの味がすると言っていた。國友さんの感はいつも鋭い。お茶っ葉は僕も食べたけれど、爽やかで甘かった。

僕のご先祖様は、きっとここらへんを歩いていたんじゃないか。地図を眺めていて、ふとそんなことが浮かんだ。僕の父方は3代ほど遡ると木地師だったという話を、亡くなった父から聞いたことを思い出したのだ。祖父の代はすでに京都出町柳あたりの住人で、父も京都育ちだから、ひいおじいさんの頃の話。琵琶湖の疏水に遊び、伊吹山が大好きだった父は、疎開で実家の石川県加賀市山中(やまなか)に移り住んだ。その場所がひいおじいさんの里なのだが、山の道を石川から京都にたどるなら、ここ春日も結ばれているように思えた。

父の生まれは1930年、なんと松下先生と同い年という偶然を知り、杯を交わした先生からは、ヤマチャは西から東に山に沿って続いていると教えられた。ヤマチャはヤマとサト、ヤマとヤマを結ぶ。思いはさらに深まりました。(つづく)

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