群馬の高崎から車で西に4,50分ほど。榛名山のふもと室田というところ。1991年からずっと、豚が野山で飼育されている。エコロジー放牧豚という。飼い主は清水雅祥さん。その清水さんのところにおじゃましたらなんと、立派なBBQ施設を手造りしちゃってた。昔から人とのふれあいが大好きな人で、いろんなイベントに出張って豚の丸焼きやってくれたり、子どもたちに肉の切り方や食べ方教えてくれたり、思い出も多い。200人ぐらいは遊べるというこの場所、ORENCHE、って名づけたと照れながら話す清水さん。OrganicでRefreshでEcoでNaturalで、「俺んちへ、ってモジってあるでしょ?コレ静岡のオラッチェをヒントにしたんだよねぇ…」なんとかかんとか。ネーミングのセンスは気のいいおやじさんなのである。
なつかしかったのが看板。錆びまくってるこれは、ここに豚の放牧場を立ち上げるとき、らでぃっしゅぼーやのスタッフが手作りしたものだ。1991年9月1日、当時の群馬県知事も招いて大々的にスタートしたその頃のボクは、らでぃっしゅの母体だった日本リサイクル運動市民の会に入ったばかりのぺーぺーで、見ること聞くこと面白かった。清水さんご本人にはちょくちょくお会いしてきたけど、20年近くの時間を経てこの看板に再会するというのは、やはり感慨深かった。
放牧豚は、30年ほども昔になると思うが、狭い畜舎に密飼い、薬で病気を抑え量産される養豚へのオルタナティブとして始まった。生後3ヶ月の子豚を野に放って3ヶ月で肥育するこの取り組みは、放牧期間中の投薬をせず、野山で運動させることで豚が健康に育つ。耕作放棄された草ぼうぼう、急斜面の土地も豚が耕し、糞尿も還元されるから、土が肥沃になる。簡単な柵と水場の確保、自動給餌器さえあれば、畜舎で飼うような過酷な労力はまったく不要。中山間地の農地が有効活用され、消費者には健康な肉が提供されるという画期的な取り組みだ。
清水さんに聞くと、この日は2万平米の放牧場に、入牧したて、生後3ヶ月の豚がたった80頭という。「この密度、あいつらにとっちゃあ森に解放されたって感覚になると思うねぇ」。言葉どおり、鬱蒼とした森に入っても豚の姿は見つからず。外の気温はおそらく35度を超えているが、森が放牧場のこの中は一帯をそよ風が通り抜け、快適に涼しい。昔の桑畑。放棄された桑の木は樹高5メートルほどに伸び放題、豚がゆったりするのにぴったり、森の放牧場と化している。
清水さんが「おーい、おーい」と呼ぶと5,6分ほどで1頭2頭、ぼちぼち姿を見せ始めた。好奇心が旺盛な豚たち。最初は昼寝を邪魔する闖入者への警戒からか、遠目にボクらを窺う感じだったが、今回は写真撮影とてこちらもじっとがまん、騒がずじっとしていると徐々にこちらにやってくる。10分もすると最初の警戒心はどこへやらで、僕ら目の前で遊び始める。かわいいもんだ。
20年といえばふた昔である。その言葉どおり、節目のようなものが2つは巡った気がする。鳴り物入りで始まり、清水さんもらでぃっしゅぼーやも、放牧豚の生産と販売を模索しながら学んでいった頃があった。前例無きに等しい取り組みゆえ迷うしケンカめいたこともしょっちゅう。そしてそのころは都会から消費者がたくさん来ていた、らでぃっしゅぼーやのスタッフもよく通った。新人研修としても、たくさんの新人がここで学んでいった。
そんなこんなが落ち着いて21世紀がやってくると一転、人もあまり訪れなくなり、この放牧場は静かになった。当時の画期的な取り組みも、(ホントは今でも非凡な取り組みなんだけど)当たり前になったかのように話題に上らなくなった。そのかわりに狂牛病やら鶏インフルエンザ、口蹄疫など、偽装事件や毒物混入など、畜産や食品を巡ってはそうとうに物騒な話題ばかりが目立つようになったことの裏返し。
それでも清水さんは全然変わらなかったなぁ。失われたようなこの10年、それは清水さんにとってはバーバキュー場を造る10年、年齢とともに山暮らしを見つめなおす10年、下界との交渉を保ちながら、我関せずの自分そして放牧豚のすばらしさ、20年をかけてここまで自然に親和した、我が放牧場を愛する自分を楽しむ10年として年輪を重ねていたのでありました……
閑話休題。当時放牧豚に関わっていた渡邊玲さんはなんと、カレー伝道師になった。高瀬周は平田牧場でコメ豚の取り組みをやっている。いつかここに集まって酒飲みたいナァ……
Posted on 金曜日, 12月 30th, 2011 at 11:56 PM