『小川八重子の常茶の世界』を何度も読んできた。
師の遺志を継ぎ、今はご子息の豪比古さんが活動する「常茶会」で、「常茶」について次のように語っている……
「常茶」とは、「日常茶飯時」の言葉から、とったものです。意味は、読んで字のごとし。「日常、毎日飲むお茶」という意味です。
「日常茶飯」という言葉は、「とりたてて問題にすることでもない、当たり前のこと」に使われる言葉ですが、考えてみると、茶と飯は、空気や水と同じように、格別の存在を意識しないけれど、常時身辺にあって、私たちの生を支えているものである。ことの証左といえるかもしれません。
しかし、「お茶」というと、現在では、玉露や煎茶がもてはやされています。逆に、ばん茶は、どうでもいい安物のお茶 という扱いがされています。
玉露や煎茶は、礼法茶です。これは、味わうためにある、ほんの少し飲むお茶。日常ガブガブ飲むためのお茶ではないし、また、たくさん、飲めるものではありません。
普段、毎日飲むお茶には、ばん茶がふさわしい。
小川八重子は、お煎茶の茶道師範から、「おばん茶」のおばさんに転身し、余生を「おばん茶の普及」に費やしました。(常茶会HPより抜粋)
本の話に戻ると僕は「私と茶」の章が好きだ。
その土地土地で古くから伝承された独特の製法、すなわち、蒸す・煮る・炒る・干す・漬ける、といったそれぞれのやり方でお茶を作り、人々は日常なくてはならぬ飲みものとして親しんできたものでしょう。土地によって、香り、味ともにさまざまで、最初は飲みづらいなど思うお茶もないではありませんでしたが、馴れると、煮豆・干し柿・そばがき・芋など、自家製の食べものをつまみながら、何杯でもおかわりするようになりました。
(…)昔ながらの香りのお茶をもとめて、私ハジプシーの如く、私用に作ったコンパクトな製茶道具をかかえて、いろいろな処へお茶を作りに行きました。古いお茶の木があるとなれば、はい国へも出かけました。(『小川八重子の常茶の世界』より抜粋)
先日、ひょんなことから幕内秀夫さんのblogに行き当たった。
故・小川八重子さんの「お茶は茶色」というお話に。
そこで何の気なしに「小川八重子 幕内秀夫」で検索をしたらなんと、
「お茶は茶色です」のお話が、幕内さんのblog「幕内秀夫の食生活日記」に記されていた。
ほんの先月ごろの日記、心にとめているのだと思った。
本には、小川八重子さんは1995年正月のネパール行のあと、2月に入院、なんと5月に、最後の講演を幕内さんが結ばれたとあった。亡くなられたのが1995年の12月。あの頃の幕内さんの心の内に、小川さんのことが宿っておられたのかと想像すると、ヘンな言い方になるが、キュンとするような気持ちがこみ上げた。そこには粗食のこと、常茶のことなど、あまり考えていない自分がいたのだけど。
人間(というか自分)勝手なもんだ。
幕内さんのお話、歯に衣着せぬ名調子を聴きたくなったなぁ。