秋のヤマチャ畑。手つかずの自然の中で花咲きほころぶ。やがrてタネを落とし…

秋のヤマチャ畑。手つかずの自然の中で花咲きほころぶ。やがrてタネを落とし…


◆土佐の山の民

「最初の頃は、周りからはぼろんちょだったです。そんなことできるわけない。そんなもん金になるはずがない。都会から帰ってきた社長がと言われ、国友つぶれる言うて……」。

“失われた香りの復活”のために、手間を惜しまず。いやはや確かに。自然生えのヤマチャを、有機栽培で育て、ていねいに手で摘み、機械を使わず手で釜炒り。ここまでこだわったお茶づくりは日本中どこをさがしたって前代未聞だ。こんなにまでこだわって、國友さんを駆り立てた想いとはなんだったろうか? 國友さんは、今はもうない幻のお茶“石鎚黒茶”のエピソードを話してくれた。何年も前のこと、とある研究機関の先生たちと、石鎚山に行った。石鎚黒茶というお茶をつくっている、曽我部正喜 さんご夫婦をお訪ねしたそうだ。ところが残念なことに、お目当ての石鎚黒茶はもう作っていないということで、残念な気持ちを残しつつ、あいさつもそこそこに山を降りなければならなかった。

「たった30分しかおらなかったのに、帰るとき涙が出てきた。曽我部さんは、なんというか、崇高な方でした。ほんとに山の上で暮らしておいでの方。なくなってしまったお茶への想いもさることながら、自分の暮らしている集落も、放っといたら、誰もいなくなって消えていってしまうんじゃないか。そういう“山での生活”が他人事でなく胸にじんときてしまったんです」。

記録によると、昭和30年代、石鎚地区の人口は1187人で、それが平成9年にはたったの4人(2戸)とあった。ほかの山村だって大同小異、30年代の山は活気があっただろう。國友さんが暮らす集落も人がたくさんいたそうだ。ひと山越えた池川などは、愛媛松山へと続く街道筋、宿場も置屋もあって、そうとう賑わっていたという。ところがこの10年は、不景気も一気に加速、人の流出が止まらない。山は危機的状況にある。

「実はあの一週間後、石鎚山にまた行ったんです。そしたら“また来ます”ってホントに来た人はアンタが初めてや言うて。そしてなんとまぁ、このお茶ですって、あのとき出してもらえんかった、“ホンモノの石鎚黒茶”を、いただきました。ほのかな甘みがあるような上品な味。後にも先にも、あれがさいごの石鎚黒茶の味わいでした」。

山に生きる仲間、同じ“土佐の山の民”として、こころが通じたのか。國友さんはこの思い出を嬉しそうに話してくれた。そして今、ふるさとがなくならんように守りたい。山にたくさん人がいた昭和30年代のように、地方に人が帰ってきて、日本がバランスよく、ふるさとが継続できるようにしたいと話す。土佐の山の民。國友さんの想いは、実にこの言葉に尽くされている……

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私たち土佐の山の民は、古き時代から、谷、川、木々、一本の草々にまで畏敬の念をはらいながら、山の自然と共に生きてきました。(中略)

自然の力、それは山々を渡る風であったり、静かに降り注ぐ南国土佐のお日様の光であったり、何よりも山の土の力です。その力を最大限に生かすため、焼き畑の後、すきやくわで耕された急峻な山畑で、国友農園のお茶は大切に大切に育成されています。(中略)

人の心と手をかけて丁寧に収穫された茶葉は、土佐の山の民の想いに山の神様が手を添えてくださった贈り物。自然の力が生み出した豊穣の山の幸をお届けいたします。
(国友農園ウェブサイトより)

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川又日浦山自然生え園は、岩場の中の雑木と竹林に自生のヤマチャに与えるものはカヤ肥えのみ。まさに野生の趣でした

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◆12年の歳月でつかんだ“大事な何か”

「山の事業は厳しい。けどやっていかんと。お茶は自分の救い、成長の糧なんです。夢を追うようですが、お茶というのは、私自身にとっても、今の時代にとっても、大事な何かだと思うんです。そういう意味できちっと、必ず継続する事業に。なんとかもっていきたいと思っています」。

“失われた香りの復活”の物語は続く。國友さんが事業を始めたころは、香りと無農薬と在来種という切り口は、本人も、“差別化”としてとらえていた。山のお茶を飲んで、景色を浮かべて癒される。それを売りにしようというような、商業的な考え方が強かったそうだ。

國友さんの使命はお茶だけではない。国友商事の社長としての使命があり、山のお茶はその一部門にすぎない。大黒柱である建設土木は、この10年で6割が廃業か倒産というたいへんに厳しい状況が続いている。その過酷な競争を戦い、精神的なストレスを抑え込みながら、心のどこかでは、いつもお茶のことを考えていた。お茶という飲み物や、茶道、習慣や作法が、どうしてこんなに広がったのだろうと、ずっと考えてきたという。熾烈な戦いに身を置きながら、お茶を飲み続けていくうち、自分の心が自然と、だんだんと落ち着いていったという実感。激しさから静けさへと導かれるような体感は、いったいどうしてかと考えるようになった。

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「ベトナムの帰還兵が強いストレスで心身症になったというテレビ番組。それと略奪や殺し合いで明け暮れた、これ以上ないようなストレスフルな毎日を過ごした武家社会から“茶道”が始まったというお話し。ある時、この2つが自分の心の中に入り込んで、これだ、と思ったんです。お茶というものが、人の心を落ち着かせるという働きがあったからこそ、広まっていった。そう思うようになったんです」

人間は精神的な生き物である。心のストレスで病気になってしまうのが人間。武士たちが “茶道”を求めたころ、その“当時のお茶”には、張り裂けそうな恐怖心や不安、極限状態のなかで、心を鎮め、落ち着かせるというような、具体的な精神作用をもたらすような機能性があった。だからお茶が広がり、茶道が広がった。茶道は作法だけのものではなく、茶のそのような“具体的な作用”を核に、作法や空間、思想を取り込んで、道をなしていったのではないか。

そういう効果が、本来のお茶づくりをしていれば、得られる。“当時のお茶”とは、まだ近代技術もなかった頃のお茶だ。禅宗の開祖、栄西禅師が「茶は養生の仙薬なり、山谷に生じれば神霊なり」と説いてお茶を広めた鎌倉のころのお茶だ。焼畑で開いた、古の遺伝子を今に伝える、実生の、ザイライの茶樹に連なる物語であり、その物語は、空気も水も清浄な、無農薬有機栽培、無肥料に限りなく近い栽培が徹底された、小倉山、日浦山の茶園に、生きているのかもしれない。

お茶は、國友さんのいう“救い、成長の糧”であり、今の時代にとって“大事な何か”。無我夢中でお茶をはじめて12年。この“大事な何か”を、差別化とか、商業的に、売らんかなではなく、伝えていきたいと考えている。

(了)

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●国友農園ホームページ
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