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在来のお茶には、品種茶の混ざりっ気のない香味とは違った、在来のお茶ならではの、お茶の全体観のようなものがありはしないか。それが在来のお茶の魅力として、尽きない喜びとして、他の飲み物にはない懐の深さを支えているのではと思っています。

もともとのお茶の楽しみ方は、品種を楽しむということはありませんでした。品種の定まった挿し木茶園が広がったのは昭和30年代からです。それまでは、お茶はお茶でした。宇治、背振、本山などなんでもいいけれど、品種ではなく、そのお茶の産地ごとの味わいだったのです。京都の栂尾を本茶としてそれ以外を非茶とするあの闘茶は、お茶の産地当てクイズでした。地域ごとのお茶の特性や、お茶の作りからくる香味を楽しむ。お茶は保存が効くし、お茶やさんが方々売り歩いて、その産や土地柄、作り手からくる違いを賞して、楽しんでいたと思います。

品種茶の視覚的なわかりやすい香味が席巻して、今の時代では在来の香味は地味だし、目立たず沈んでいってしまうのではないか。以前、そんなことを書きました。

沖縄の島言葉が絶滅の危機にひんしているそうです。言葉は文化の最たるもの。島の子どもたちはテレビの発する標準語をしゃべって、すっかり標準語脳に。これを洗脳というのか、言葉は相手がなければ消えますから、大変なことだと思いました。世界は英語脳-グローバリズム-が席巻して、土地土地で使われてきた、生きた言葉が飲み込まれる。ナショナルアイデンティティの喪失というものです。お茶もひとたび香味のスタンダードが共有されれば、その言語でお茶を解すようになる気がします。それはきっと視覚的でわかりやすい香味でしょう。そして違う体系のお茶の存在は顧みられなくなってしまう気がします。これは何を意味するのか?

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哲学者、内山節さんの『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』。1965年を限りに、それまで話題に上ったキツネやタヌキの話が、ぴたり聞かれなくなったそうです。現代を生きる私たちは科学を信奉し、人をばかすキツネの存在を否定しました。そこから内山さんは、そのかわりに失ったものへと思いを深め、言語化された歴史からは拾われないが、人々の記憶や風景にしっかりと刻み込まれた「身体性の歴史」という概念を浮かび上がらせました。

在来のお茶は機械で刈り込んでは量も採れず雑味も増すが、挿し木の品種茶は揃いがよく量も採れて雑味を生じにくい、と言われてきました。昭和30年代当時、ほぼ9割を占めた国内の在来茶園の衰退はすさまじく、今はたったの2%ほど。しかし、在来のお茶を失って、私たちは未来に何を残していくのでしょうか。これはお茶をいただくことと、深く関係することのような気がします。品種茶を否定するのではないんです。ただ、在来のお茶を中心に、品種茶も眺めていきたい。そのうえで、あくまでも在来のお茶を中心に据えた「お茶観」を、深めていきたいと思うところです。

s-20141021-01写真はすべて2014年7月末、静岡梅ケ島の有機在来園。樹齢は推定で100年です。

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